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プロフィール:石原慎太郎
●石原慎太郎とは何者か?なぜ、彼が重要なのか?
1999年東京都知事に選出された石原慎太郎は歯に衣きせぬナショナリストだ。ジョン・ネイサンは、石原を「国民的ヒーローであり、多くの日本人たちにとっては、経済が崩壊し、ぺてん、買収、政府の大尽たちとやくざのボスどもとのなれあいが内閣を次から次に倒した90年代を通して日本を指導した政党のおいぼれ馬どもにかわりうる魅力的な代替物なのである(…) 有権者に誰を首相にしたいかという世論調査をすると、多くの票を集めるのが、彼だ」と読者に紹介する。
●作家としての花々しいデビュー
1955年秋、23才の大学生だった石原は小説「太陽の季節」を書き、日本の文学界の登竜門、芥川賞を受賞した。まったく初めてのこの小説を、彼は3日で書き上げた。ネイサンによると、「太陽の季節」はお金持ちの家の出の大学生仲間の話で、「彼等は戦後に世間体に対する挑戦のあかしとして、ギャンブル、喧嘩沙汰、乱れたセックスにふける。1956年封切の映画版には、石原と弟の裕次郎がちょい役で出演した。この映画で、石原兄弟はティーンたちのアイドルになった。彼等のマネをする連中は『太陽族』と呼ばれ、ハワイアン・シャツにバギーなパンツ、ツートンカラーの靴をはいて裕次郎の向こうを張った。髪の毛はトップが長く、両脇を短く刈ったスタイルで散髪屋のウィンドウで『慎太郎刈り』として宣伝された」 
映画「太陽の季節」のポスター。石原は作家としてのデビュー当時から、日本人の秘められた欲望をくすぐることにたけていた。
●1968年に政治家になるまでの多彩な人生
60年代には石原は戯曲や小説、そして「宝島」のミュージカル版まで、多作な執筆活動に励んだ。彼は映画監督の仕事にも手を染め、劇団を主宰し、北極に旅行し、「コンテッサ」という名のヨットでレースに参加し、南アメリカをオートバイで横断し、その旅の回想録を書いてベストセラーにした。 
●知事のオフィスに置かれているもの
石原のオフィスは1987年に丹下健三が建てた45階建てのツインタワービル、ご大層な東京都庁の17階にある。ネイサンの観察によるとその続き部屋の中にある「彼のプライヴェートなオフィスの質素な机にはペンと鉛筆がはいった瓶、鏡と櫛、日本の扇子が数本、そしてぽんこつのワープロが置いてある。このワープロで彼はスピーチと保守派の新聞『産経』に毎週連載しているコラム、『日本よ!』を書くのだ(・・・)。

机の下にはひと組のスリッパとバ−ベル、ワンセット、野球のバット。机の後ろには白地に赤い太陽の日本の国旗が置かれている。いまではあたりまえの風景だが、石原が就任した時には、この旗が問題となりそれを置くことに多くの人々が異を唱えた。彼の選出後4か月たった時に、国会が日本の旗と天皇への賛歌である国家「君が代」を法的に国のシンボルにするという法案を1945年の敗戦以来始めて通過させた。オフィス内に飾られているアート作品は石原の名が入ったラウシェンバーグの版画、クリストのドローイングのほか、知事自らの手による油絵もある。映画スターで1987年に肝臓癌で世を去った裕次郎の肖像画だ。 
●そのナショナリスト的見解
石原は歯に衣きせぬナショナリストでアメリカ合衆国と中国、そして中央政府を口汚くののしる。「アメリカの利権に50年間卑屈に追随してきたおかげで日本は国の目的を奪われ、アイデンティティの危機におちいってマヒしてしまっている」と彼が主張しているのは、よく知られた事実だ。「彼は同胞の国民に向かって日本は現代的なスーパーパワーを作りだし得た唯一の非白人社会だということを思いおこさせようとする」。ネイサンによると「敵からはデマゴーグで人種差別主義者と呼ばれる彼だが、その挑戦は現在のこの国のムードに共鳴している」。石原がワシントンの目を初めて引くようになったのは1989年。彼のスピーチを集めた「『ノー』と言える日本」がペンタゴンのある部局によって部分的かつ無許可で翻訳されて英語ででまわった時のことだ」とネイサンは指摘する。「石原の言い分はこうだ。アメリカの日本への態度は、日本の国益を軽視して組み立てられており、そのうえ、人種差別主義によって突き動かされている。ペンタゴンの注意を引いたのは、日本は誘導ミサイル製造に必要なマルチメガビットのチップをアメリカではなくソ連に売ることによってパワーのバランスを傾けることだってできるのだとい彼の指摘だった」 
●反米感情の起源
石原はネイサンに向かって戦時中のある出来事を物語った。中学1年生の時、彼は海岸沿いの逗子に住んでいたが、そこは敵の軍機が海に抜けていく通路にあたった。石原によると、「アメリカ人には、僕らがガキだということが見えていたんだけれど、それでもおもしろ半分で僕らに機銃掃射をおこなった。ある日、僕は大麦畑に倒れこまねばならなかった。そこに横たわっているとグラマンとP-51がごう音を立てて低空飛行でやってきた。飛行機の胴体に描かれた裸の女たちとミッキーマウスの絵が見えた。我が目を疑ったね。こちらは死ぬほどおびえているというのに。腹もたった。でも同時に、アメリカってなんて場所なんだ、なんて文化なんだ、日本とまったく違うと考えていた。次に別の飛行機の音がした。今度はマシンガン無しだ。追跡してきたゼロ戦で日章旗がそのマークだ。のぼる太陽に手をのばして抱き締めたいような気持ちになったものだ」 
●三島由紀夫との友情
三島由紀夫の伝記作家でその小説の翻訳もてがけたネイサン、三島の話も当然、登場する。「三島は石原より7歳年長で、早くから彼の熱烈なチャンピオンだった。三島は石原を作家や戯曲家、文学界の批評家などに紹介した。石原は三島の官能世界への道案内だった。」ネイサンに向かって石原は、こう語る、「三島さんは公務員の家庭に育ちましたから、上辺の見せかけの下では、実は因習的で自己抑制の強い人でした」。三島への強い喪失感を石原はこう語る、「彼のいなくなった日本はもう前の日本とは違います。もっとも彼の政治は冗談にすぎませんでしたが」 
●物議をかもす石原の対中国姿勢
石原はネイサンにこうぐちる。「我々は中国に金をそそいで水爆開発を続けさせてやってるようなもんですよ」。彼は一度ならず、1937年12月の南京大虐殺は中国のでっちあげだとほのめかしてきた。その話しを正面からすると石原はネイサンをこうとがめた、「中国が数を誇張してきたと言ったんだ。戦争のヒステリー状態で軍は人々を虐殺してきた。戦争ではおこりがちなことだ。アメリカは広島で1日で35万人を殺した」。「石原の数字は少々ずれていることがよくある」とネイサンはただし書きを入れる。「広島では爆撃に続く4日間で推定12万人が命を失った。数千人が原爆に関連した病気で後に亡くなった」。だがネイサンは彼自身の数字の情報源を明記していない。ある日本の百科辞典は広島では1945年末までに被爆が原因で14万人が死亡したとしている。 
●軽蔑的言葉「三国人」の使用
2000年に石原は自衛隊を訪問し地震の後、中国と朝鮮の移民が暴動をおこしたりした時には警察の秩序維持を支援できる準備体制をくんでいてほしいと語り、批判の的となった。彼は移民を「三国人」という蔑称で呼んだ。ネイサンはそれを「三か国の人々」と訳しているが、実は、「第三国からの人々」という意味で、日本占領下にあった、また、終戦後日本にとどまった主に朝鮮と台湾の人々をばかにして呼ぶ時に使われる言葉だ。 
●石原の地震訓練
去年の9月、石原は7千人の自衛隊の部隊と1万8千人の警察官を動員して毎年恒例の地震準備訓練を行った。ネイサンは「首都東京で軍事力がこれほど威圧的にみせびらかされたことはアメリカによる占領の初期の時代以来、初めてのことだった」と書いた。「石原をそしる人々はその訓練はまさしく戦争ゲ−ム以外のなにものでもなかったとし、またしても、彼をファシストだと糾弾した」 
●石原、自らを語る
僕は実存主義者だ。僕にとっては自由と情熱が一番大事なものでね。サルトルが共産主義者だと知った時には恐ろしく失望してしまった」 
●参考文献 (日本語のみ)