日本の根本的問題を暗示した
「ラスト・サムライ」

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日本でも公開され人気らしい「ラスト・サムライ」をハーレムのマジック・ジョンソン劇場で見た。地域によって違う映画を上映するのはマーケティングの賜物。このシネ・コンプレックスで上映されるのは1.黒人俳優が主演している作品。2.出演者がほぼ黒人だけの作品(コメディが多い)3.子供向けの作品。4.アジアがらみのアクションもの。にほぼ分けられる。

「ラスト・サムライ」はこの4.に入るわけである。前回書いたスタジオ・ミュージアム・イン・ハーレムの「ブラック・ベルト」展にからむ話だが、黒人は一般的に、カンフーやサムライものを好むという前提を基に上映されていたのだ。だから、ジャッキー・チェンやジェット・リーが主演するアクション映画は必ず上映。もちろん、少し前には「キル・ビル」もやっていた。

木曜日の夜7時すぎからの回を見に行ったが、15人ぐらいしかいなくて、しかもざっと見渡したところ黒人が少なかった。ニューヨークで上映開始してからしばらくたっていたので、口コミでこの映画にはあまり殺陣のシーンが多くないというのが広がっていたのかもしれない。いかにも「キル・ビル」を好みそうな若いアジア系と白人の男性ふたり連れが、よく小声で笑うのを耳にしながら鑑賞。

トム・クルーズ主演のサムライ映画といえば、ハリウッド製のヘンな映画にいろいろと遭遇してきた日本人としては、いいイメージが沸くわけがない。批判することを目的に見に行ったのである。前広告では、クルーズが「最後の侍」であるかのような描き方をしているのも不愉快であった。

しかし、期待しないで見たせいだろうが、思ったよりも悪くなかったというのが正直な感想だ。日本語のセリフもけっこうあり、日本人俳優同士が会話しているシーンでは、英語字幕付きの日本映画を見ているような錯覚に陥った。ニュージーランドでロケしたとはいえ、日本文化をある程度リアリティーをもって描いていたということだろう。

もちろん、ハリウッド映画が描く日本だから、おかしなところはある。時代考証的に見ても、合戦シーンや着物がらみの風俗に、明治初期と戦国時代の混同と思われるような点があった。チャンバラ映画を見ないので、詳しいことは知らないが、殺陣のテンポが速すぎるという日本人の批判も読んだ。

さらに、ストーリー展開には無理がある。クルーズが渡辺謙扮するラスト・サムライ勝元に合戦の場で捕まってもなぜか殺されず、クルーズが殺した相手で、サムライの義弟の家に居候させる。しかも、勝元だけが彼の居住する村で英語が堪能ときている、。

一番不自然な部分は「最後は白人男性が勝つ」というハリウッドの定石がきちんと守られている点だが、このように終わらなければこの作品は存在しないのだから、批判のしようがない。欧化政策を推進する政府軍の銃弾を共に山のように浴びながら、侍魂を維持しようとするサムライは倒れ、クルーズだけが助かって天皇に謁見し、日本の外交政策に影響を与える。アメリカ人でさえ「最後の10分は見るな」といっている。

当作品に出てきた、西欧の列強に遅れを取らないように刀や髷を禁止にして近代化してきた政府の方針は、今にも生きている。義務教育において日本の伝統文化に関しては歴史、文学、書道以外教えないこと、西洋でも注目されている鍼灸や漢方薬は健康保険でカバーされないことなどに。それでいて海外に対して日本を表現する際には、常に伝統文化を利用する。そのプロパガンダが効を奏しているのか、日本の外に出れば、日本人は伝統文化だけでできている人々というイメージを抱かれがちだ。しかし、現代の日本は、欧米の文化にどっぷりとつかっているから、普通の日本人にとって伝統文化はハリウッドよりも遠い。

こうした矛盾は、まさにこの映画が描いた1870年代以降、日本がかかえる問題だ。日本人が捨て去ろうとした伝統絵画に美を見い出し、今では「日本美術の恩人」とまでいわれているフェノロサ(彼を主人公にした映画を創ってもハリウッドの定石は守られるだろう)。表面的な西洋化を憂えた漱石。白人男性はどこに行ってもヒーロー、という映画で、私が見い出したのは、日本がかかえる西洋との対峙の仕方という根本問題であった。(八巻由利子)