絵画の中の「見えない存在」

南蛮屏風とルネサンス絵画での「黒人」

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11月半ば、知り合いのアフリカン・アメリカンのアーティストでキュレーターのAmir Bey氏から、メトロポリタン美術館で2004年1月11日まで開催中の「Turning Point: Oribe and the Arts of Sixteen-Century Japan(織部ーー転換期の日本美術)」展を一部批判的したオンライン・レビューが送られてきた。

織部とは、安土桃山時代1573年〜1603年)に利休の弟子で織田・豊臣に仕えた侍でもあった古田織部のこと。美濃の焼きものの名前にもなった。この展覧会では、その織部焼きの陶器、蒔絵、絵画、茶室などを見せている。

西洋との接触があった時代だったので、世界地図や南蛮屏風も展示されている。ベイ氏の批判は、南蛮屏風の中にポルトガル人と共に肌の色が濃い人々が描かれているのに、会場の説明書きでもカタログでも何も言及されていないのはなぜかというものだった。

その南蛮屏風を見に行ったら、確かに灰色やカフェオレ色の人々が、ポルトガル船の船長らしき人に傘をかざしたり、白い人の後をついて荷物を運んだり、馬の手綱をもったり、船のマストを上げたりしている。髪型や服装は白い人と同じだが、無帽で裸足。身なりは白い人と似ているが質素である。

1枚の南蛮屏風には、羽衣を彷彿させる天女風の女性たちも描かれている。当時のポルトガル人は日本に航海する際、女性を連れて行かなかったのに、日本の絵師は異国風(=中国風)の衣装を着せた女性たちをわざわざ描いていた。これは説明書きに書いてあったのである。それについてベイ氏は「なぜ存在しなかった人々については記述し、実際に日本を訪れた人々についての説明を避けたのか」という疑問を抱いた。

「キュレーターは、自分の好きなようにやれるのだから、彼らのルーツやその役割りについて、ただ高度な推測をする以上のことができ、また、日本での黒人の受け入れられ方についてのエピソードを盛りこむこともできたであろう」とも、ベイ氏は主張。

この時代の黒人と日本人の遭遇で知られているのは、織田信長のボディガードとなった弥助である。モザンビークの王子だったがポルトガル人に捕らえられ、イタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリヤーノが1581年に信長に「進呈」。翌年の本能寺の変で信長が死亡する時まで仕えたが、その後行方不明になったという話である。

ポルトガル人がアフリカ大陸への進出を開始したのは1415年といわれる。まず北部から始まり、大陸を西海岸沿いに下り、1498年には南端の喜望峰を経て大陸の東南に位置するモザンビークに到達。まだ奴隷貿易が本格化する前だったが、各地で捕獲または取引されたアフリカ人は首都リスボンへと送られた。ボルトガルの最大植民地ブラジルに彼らが大量に送り込まれたのは1530年代以降である。

一方、日本はアジアでポルトガル船が取引をした最北地であった。種子島にポルトガル人が火縄銃を伝えたのは1543年。既に、ビルマ、マレーシア、インドネシアなどに拠点を築き、約10年後にはマカオを獲得するという時期である。だから、ポルトガル船には、南蛮屏風に描かれたような肌の色が微妙に違うアフリカから東南アジアまでの人々が乗船していたとしてもおかしくない。


南蛮人とは誰のことか


その後、ベイ氏から続編が届いた。彼の展評を読んだ担当キュレーターでメトロポリタン美術館所属の村瀬美惠子博士とのやり取りの結果であった。

博士の回答は「1.会場の説明書きにもカタログにも書くスペースが十分でなかった。2.ポルトガル人が肌の色が濃い人々を携えていたのは常識だから、説明は要らないと思った。なぜ、ベイ氏は驚いたのか。彼らはアフリカ人ではなくて、インド人かもしれない」。また、補足として「博士が最近参加したポルトガルでのセミナーでは、ああした航海に参加した人々がポルトガル人であるということ以外には何も言及されなかった」と教えてくれたという。

ベイ氏は「1.に関して他の部分については説明されているのだから、色の濃い人々について1行でも言及されていればいい。2.についてはこのように言及されないことは驚きではなく、他の組織でもよくあることだ。件の人々のいろいろな活動が描かれているのだから、何かしら説明があってもよかった。ポルトガルでのセミナーで何も言及されなかったとしても、調べれば、ポルトガルには、航海記録があり、船や乗組員に関する情報にアクセスすることはできるだろう」という答えたという。

同展のカタログをチェックしたら、Joao Paulo Oliveira e Costaという人の「Japan, Portugal, and the World」というエッセイに「初めて日本人はヨーロッパ人とアフリカ人という異人種を見た」という一文があり、博士の「南蛮人の到来」という屏風絵の解説の中にも「色の濃い人と白い人からなる乗組員が荷下ろしに従事している」という説明があった。

色の濃い男性たち(dark-skinned men)としたのは、アフリカ人かインド人か判明しかねることへの配慮だろう。ベイ氏にも、彼らをどう表現するのが妥当かと質問してきたそうである。ベイ氏は、リポートの中で、描かれている人々の顔つきから、彼らはインド人ではなくアフリカ人だと主張している。

だから、ベイ氏がいうようにカタログでも全く言及されていなかったわけではない。ただベイ氏は、日本の絵師がヨーロッパ人とアフリカ人の行動をあれほど生き生きとリアリスティックに描いたのに、説明書きではそれが排除されていることを抗議したかったのである。特にアメリカの黒人は、アメリカという国家の構築のために何百年も無償奉仕してきたのに、つい最近まで、いろいろな場面で見えない(invisible)存在とされ���きたため、こうした処遇には特に敏感なのである。

ところで、ふたりのやり取りを見ていて気になったのは、「南蛮人とはヨーロッパ人とアフリカ人のことだ」という了解が双方にあった点。果たしてそうなのか。小学校から高校まで日本史を習った記憶では、南蛮人はポルトガル人とスペイン人のことだと理解していた。彼らが色の濃い人々を携えていたことは習った記憶もないから、携えていた人々までも南蛮人かどうかについて疑問をもったこともなかった。

だいたい、歴史の授業で南蛮貿易とアメリカの奴隷制が関係あるなどと習ったとも思えない。南蛮貿易は日本史で、奴隷制については世界史でとばらばらに習ったからということもあるが、自分が習った「歴史」に片寄りがあることは否めない。そういう中で、見えない存在の人々が歴史の記述から排除され無視されてきたはずである。


フレッド・ウィルソンが描いた「ヴェネツィアの黒人」


私はこの応酬のリポートを読んで、この夏、ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ館で見た、アフリカン・アメリカンのアーティスト、フレッド・ウィルソンによる「Speak of Me as I Am」展を思い出した。シェイクスピアの「オセロ」中のセリフをタイトルに冠したこの展覧会は、ルネサンス期のカラパッチオやヴェロネーゼらの絵画に時々描かれたムーア人(ムスリムのアフリカ人)をモチーフに、べネツィアにおける黒人の存在をテーマにしたもの。

絵画、彫刻、インスタレーション、写真、ビデオと複数のメディアを用いて、パビリオン全体で、西洋のアートにおける黒人の存在から、現在のヴェネツィアで商売をするセネガル人の姿までを捉え、西洋文化の中心地に赴いた非西洋人の私にも訴えるものの大きな展示であった。

カタログ内の作家へのインタビューによると、ルネサンス時代にヴェネツィアに住んでいた黒人に関する記録は、文書も伝記も何も残っていないそうである。だから作家は、アフリカン・アメリカンで、さらにネイティブ・アメリカンとヨーロッパ人の血も混ざる自分のバックグラウンドとアウトサイダーであることから、彼らの暮らしを想像し、創作したという。

ウィルソンは人種問題を取り上げることで知られているが、「一番興味があるのは、多数派から疎外されinvisibleにされている人々と、こうした問題に対するメインストリーム社会の無視。それは人種(問題)を超えている」ともいっている。

奇しくもルネサンス時代と時期を同じくする安土桃山時代、南蛮人がよく見られたのは、長崎、京都、堺だった。商業都市として栄えた当時の堺は、独自の自治制を備えていたことから日本に滞在していた宣教師たちに「日本のヴェネツィア」と報告されている。私がキュレーターなら、ウィルソンに桃山時代の黒人についての作品を依頼してみたいものだ。(八巻由利子)

関連サイト

http://www.metmuseum.org/special/se_event.asp?OccurrenceId={5BC229A8-FC6B-11D6-94C7-00902786BF44}

http://www.pref.gifu.jp/s27213/

Detail of "Arrival of the Nanbans"
Detail of Vittore Carpaccio, "Miracle of the True Cross" 1494
Fred Wilson, "Speak of Me as I Am", 2003 at the 50th Venice Biennale. Photo: Yuriko Yamaki