ウエブ・フォーラム その1  back
ロス・キル・サムの「ジャパン in ハリウッド」


ロスト・イン・トランスレーションしている日本

ロス:まず、「ロスト・イン・トランスレーション」から。この舞台は東京ですが、他の場所でも同じような作品ができたと思いますか。それとも東京(日本?)でないと、いけなかったのでしょうか。

サム:別に日本でなくてもよかったんじゃないですか? 同じ映画にはならないでしょうけど。

キル:日本だからこそ面白いと私は思った。日本自体が海外からの文物や情報にあっぷあっぷしてLost in Translationしてる国だから。いろんな物を吸収しまくって得体がしれなくなってる。ソフィア・コッポラがきっとお馴染みの日本のファッション・ビジネスの世界なんて、ほんと奇妙に無国籍というか、日本人が「自分は白人なんだ」といつのまにか信じ込んでる世界だから。日本のファッション誌を見てごらんよ。99%白人モデルしか出てこない。

こういう文化的に迷子になってる国という鏡に映して、迷子の私が見えてくるという構造なんだと思う。グローバライゼーションのおかげで、世界中、迷子状態が当たり前になってきてるとはいえ、日本は今のところ、その先端を突っ走ってる国だから。

ロス:「ロスト・イン・トランスレーション」はレイシスト映画だという非日本人がけっこういるようですが、日本人として、そういうことを感じましたか。シャワーの蛇口の位置が低かったり、エレベーターの中に背の低い初老サラリーマンがたくさんいたりするシーンなど。私はふいに京都に行くところとか、富士山の見える所でゴルフをやるところがステレオタイプだと思いました。日本の観光名所を見せるという意味で、ああいうのは避けて通れないものなのでしょうか。50年古いという感じがしますが。

あと、病院に通訳なしでふたりで行きますが、ああいうのは非現実的ですよね。ボブ・ハリスのような立場で来た外人には、絶対にアテンド(通訳)がつくはず。 ロスト・イン・トランスレーション状態を強調するために入れたシーンですが、SFやファンタジー映画ではないのに、ああいう実際にはありえないシーンがあるのは、どうなんでしょう?

キル:私はぜーんぜん、気になりませんでした。知らない国に行って見なれない物が不思議だったりおかしかったりする、当然、そうだと思うから。これが例えば私たちが批判したNYタイムズの記事みたいに、高い所に立って自分の立場や文化の絶対的優位を前提にそれとは異なるものを見下す、という姿勢だったら嫌な気になったでしょうが、この映画はそういう笑いを取ろうとはしていない。

サム:「ロスト・イン・トランスレーション」はレイシストかという問題はよくわからないのですが、偏見的な感じのする場面は漫画的なので、チープなジョークに終わっていて、面白くはないけれど、特に感情を逆なでされる気はしませんでした。基本的にこの映画は問題解決に向かわない映画だったので僕は好きでした。

「ラスト・サムライ」はマーケット・リサーチの賜物?

キル:「ラストト・サムライ」は、いろいろ面白かった。南北戦争ブームともちろんヴェトナム後のアメリカの戦争観が重なってるわけだけど、奸臣に惑わされる天皇を死をもって諌める忠臣の死に、散ってゆく桜吹雪のイメージが重なるというのは、ほとんど2.26事件のノリ。これを日本人が作ったらほとんどド右翼。それを、アメリカ人が美しいという。

もうひとつ面白かったのは、天皇像。天皇といえば、アメリカの人々は、時代が違うとはいえ、当然、ヒロヒトのイメージと重ね合わせて見るだろうわけで、そうすると第2次大戦でも、実は天皇はお人形にすぎなかったのかな、というイメージができあがる。近頃の「ヒロヒト」研究による新解釈の反映なのかな、これ。「天皇、実は、良い人」というアメリカ映画は、これまであんまり、なかったのでは?

トム・クルーズ演じる主役は、日本のいいとこ取りをする。でも、悪いアメリカ人は「古い日本」である渡辺謙の手にはかからず、アメリカ人(トム・クルーズ)の手にかかって死ぬ。しかも、刀で切り殺されるのではなく、刀をぶん投げるという刀の使い方としては異端のやり方で。

ここで、古い日本は破綻し、刀(日本)は銃(アメリカ)に勝てないことがはっきりわかる。で、古い日本は新しい時代には通用しないから渡辺謙は「美しく」死ぬ。でも「美しい日本」のイメージは残る。さ、美しい日本を観光しましょ、消費しましょ、というノリ。

別にイヤな映画じゃ、ぜんぜんなかったし、渡辺謙もなかなか良い味を出してた。子役の弟役のコがかわいかったけど、日米関係を考えるとなかなか意味深でありました。

ロス:クルーズの刀によって政府側についていたアメリカ人が殺されるシーンについてですが、���リウッドには、白人が有色人種によって殺されることを嫌がる伝統があります。

デンゼル・ワシントンがアカデミー賞を取った「トレーニング・デー」の役柄の人種が逆になることはありえないのです。つまり、イーサン・ホークという正義の味方の新米白人警官が、デンゼルという汚辱に満ちたベテラン黒人警官を死に至らしめることで、正しい者が勝つことを表現していたわけです。これがハリウッドの公式です。

日本で聞ける米軍放送AFN(旧FEN)は日本人向けに放送しているわけではありませんが、日本人も傍受しており、shadow audienceと呼ばれます。日本人は海外の文物のshadow audienceです。コロンビア大のパネル・ディスカッションでもいっていましたが、これらの日本を描いた映画は結局は西洋の映画であり、西洋人が見て楽しむようにできています。それをshadow audienceである日本人が見て、いいとか悪いとかいいているわけです。

そうした構造がずっと、特に戦後続いているのですが、アメリカ国内で、この10年、マルチカルチュラリズムの影響で、黒人やヒスパニックやアジア系など非白人のマーケットを狙ったマーケティングが進展してきたことを鑑みると、これら3本の映画は、マーケットとしての日本も意識したものだと受け取れます。それが興行的にうまくはまったのが「ラスト・サムライ」だと思います。

キル:うーん、どうなんだろう。ハリウッドがそこまで考えてるのかどうか。本気にそれをやるんだったら、もっとはっきりと日本向けは別バージョンを作るくらいのことは(「キル・ビル」は日本公開は別版だったらしいけど)平気でやるでしょう。ハリウッドはそんなことしないでも自分たちの作ってるものが世界で共通に受けるという絶対の自信をもっているのでは。

もちろん、日本で政治的に物議を醸すと最初からわかっているようなものは最初から作らないよう、気を使ってはいると思うけど。

「キル・ビル」は、「ラスト・サムライ」に比べると劇画に近い作りで、物語は断片的で断片的には思わぬ方向に進むかのようでいて、結局は予測通りの結末になる。タランティーノが「僕、これやりたかったんだよね」というシーンを大はしゃぎで演出してる姿が目に浮かぶような嘘っぽさに満ちた映画でした。

サム:「キルビル」は冗談以外の何ものでもないという気がします。冗談もあまり面白くないし。やはり「修羅雪姫」の方が面白い。梶芽衣子を出演させなかったのがあの映画の最大の失敗です。「修羅の道」がCDで再発売されてるらしい。日本で買って来ます。

根底に見えるファンダメンタリズム

キル:私はテロリストのsuicide attackをあんなにも怖がっているアメリカ(ハリウッド)が「大義」のために命を捧げるサムライの姿に涙せよという映画を相も変わらず打ち出してくることが驚異。

ロス:「ラスト・サムライ」で、私はどういうわけか3年前に話題になった「クラウチング・タイガー」(邦題「グリーン・デスティニー」)を思い出しました。チャイニーズ・ダイアスポラが制作したハリウッド映画で、アメリカ人は一切出てきませんから状況ははかなり違いますが、ハリウッド製でアジア文化、特に武術を扱ったという点には共通点があります。

「キル・ビル」を含め、こういう映画がアメリカで制作され人気を得るのは、ブルース・リー以来の伝統ですが、最近の作品には特にコンピューター・ゲームの影響が強いと思います。そうやって世代を超えて、アジアの武術への憧れはアメリカの中で継続されていくのでしょう。

ハリウッドでは、中国ものはカンフー、日本ものはサムライというジャンルができているから、「大儀のために命を捧げるサムライの姿」を見せても、観客は、それがテロリストの攻撃を彷彿させるものとはならないのでしょうか。

日本人の感覚からすると、特攻隊とWTCや中東での攻撃は似ていますが、そこまでアメリカ人は考えないような気がします。言葉ではカミカゼ・アタックといってはいますが。

こうしたサムライ映画をあきもせずに制作するのは、ハリウッドの武器好きとも関係あるでしょう。「ロード・オブ・ザ・リングス」のポスターにも剣をもつ人物が掲載されています。ハリウッド映画のポスターでは、銃、刀、剣など、またはそれを持つ主人公の図柄が圧倒的に多いと思います。武器を用いた戦闘の映画が一般受けするのでしょう。

ハリウッドはけっこう外のマーケットにも気を配っていると私は見ています。「キル・ビル」のみでなく、今までにも、日本向けに微妙に変えたバージョンを輸出したことはあるでしょう。たしか「ラスト・サムライ」も違うはずです。「ラスト・サムライ」にしても、トム・クルーズらは、完成前にも日本に2、3度行ってプロモーションしていたようですから。TimeやNewsweekにアジア版があるように、けっこう外のマーケットを意識していると思います。

日本人は過去の経験から、ハリウッドの日本の描き方には期待していないからこそ、「ラスト・サムライ」には、余計に感動したのかもしれません。でも、私にはハリウッドによって鼓舞されるナショナル・アイデンティティというのがとても病的に感じられます。アメリカのお墨付きがないと、日本人は日本人らしさを感じることが許されないということでしょうか。

サム:「ラスト・サムライ」は基本的に、近年のファンダメンタリズムの雰囲気の中で生まれた作品だと思います。何かアメリカ人も空虚を埋めるような象徴を欲しているのでしょう。それが一方で、戦争肯定になったり、テロ肯定のようにも読めたりもするのだけれど、やっぱりインスタント(暴力的)な解決(最後の戦い)にカタルシスを求めている感じがします。

キル:なあるほど。「ラスト・サムライ」はマーケティング・リサーチが見事に行き届いた映画という気がしました。ビデオゲームみたいでこうすればこ��なるという筋書き通りに物事が進む。ダビデとゴリアテ、金太郎と熊、桃太郎と鬼のパターンで、純な「若者」が腐った悪をやっつけるという型通りの話。
物語ごとに「若者」と「悪漢」の顔や名前や風景が順列組み合わせのように変わるだけなのがハリウッドの公式だけど、それでも、あるいは、それだからこそ、観客の心をつかむ。最初から先がすっかり読める映画で、観客が本心動顛するようなことは絶対に起こらない。だから、すっかり安心して涙を流せる、そこがメロドラマの醍醐味というものでしょう。その辺は、本当にうまい。

日米で涙させた滅びのサムライ美学

キルでも、この映画を見て、アメリカ人が流したであろう涙と、日本の観客の幾ばくかが今の御時世の中で「日本、ビューティフル」の宣伝に乗って流した涙は、意味合いがずいぶん違うと思う。

いずれにしろ、これらの映画の中の日本のイメージは、消費品としての日本であり、アメリカの観客にとっては、いつもマクドナルドばかりではあきるから、今日のメニューは寿司にしてみましたという程度のこと、いながらにして「外国産文物」をつまみ食いしてる(日本での外国文化の消費もそんなもの)以上でも以下でもないのでは。

ロス:同感です。「ロスト・イン・トランスレーション」だって、サムライ、ゲイシャの対極にあるハイテクな日本という比較的新しい日本のイメージをおかずにした、アメリカ人男女の恋愛ドラマに過ぎないのです。これと同じことを、ニューヨークを舞台にしたトレンディー・ドラマなどで、日本もやってきたのです。ニューヨークも消費の対象でしかないから。

サム:僕にはアメリカ人と日本人が流した涙が違う涙だとは思えないところがあって、ハリウッド・ユニバーサリズムの涙のような気がする。それはもちろん、公式化されたユニバーサル・メロドラマで、これこそが帝国主義なのだと思います。キルさんが言う「意味合いが随分違う」という意味をもう少し、詳しく聞きたいです。

キル:えーっと、ユニバーサル・メロドラマ、つまり金太郎飴を昔はずーっとバター味でやっていたのが、いつの頃からか、カレー味やサルサ味のも作らないのはけしからんという世間の圧力もあり、また、バター味だけじゃバリケーションに欠けるということでフレーバーを増やしたわけだよね。

それで今回は、醤油味にしようということだと思うけど、この映画の日本での宣伝の仕方を見ると、醤油味が世界で一番えらいんだというあおり方をしてる。日本の今の世相から見ればちょっと気のきいた興行主なら、こういう売り方で客足をつかもうとするのは商売人として当然だし、見る方はハリウッドの戦略にすっかりはまってるんだけど、やっぱり醤油が一番という和み方で終わるところが、違う涙ではないかと思う次第です。

サム:なるほど、日本での宣伝戦略が醤油味至上主義にしてしまったわけね。まさに乗せられたって感じですね。見る側も悪乗りし過ぎ?

ロス:アメリカ人は「ラスト・サムライ」を見て涙を流したりしたのでしょうか。いろいろな日本の人がこの映画を涙を流しながら見たというウエブ上の書きこみを読んで、私は最初驚きましたが、その理由はなんとなくわかります。敗北することがわかっているサムライたちへの判官びいきと、愛国心を鼓舞されたことが主な理由だと思うのですが。今、日本では「ベルサイユの薔薇」がリバイバルしているそうですが、これも同じで最後は散ることがわかっていながら、ひたむきに生きるヒロインたちへの共感が絶大な人気を呼んだのだと思います。「忠臣蔵」と同じですね。

それは、サムさんがいうハリウッド・ユニバーサリズムへの共感とは違うと思います。アメリカ人は散ることに美を見い出したりはしないと思うのです。カントリー・ミュージックの歌詞に通じるペーソスには涙するでしょうが。

サム:本当にそうだろうか。そんなこともないんじゃないかって気もするんだけどね。

ロス:そうですか。アメリカ人も滅びの美を感じるのでしょうか。個人的にはそういう人もいるでしょうけど、少なくともハリウッドは、最後はヒーローが勝つという図式に拘泥しているでしょ。「パール・ハーバー」の最後は、港の残骸に涙するアメリカ人ではなく、日本を空襲した兵士の勝利(もちろん、そこに悲恋がからませてあったけど)でした。この作品は、時間のズレはあるにしても、史実に一応準拠しているので、いい例とはいえませんが。

キル:「滅び」をかっこいいとする感性はアメリカにもあると思う。ちょい古いけどジェームス・ディーンなんて、まさにそう。「カサブランカ」のハンフリー・ボガードの役も。ポール・ニューマンもにやっと笑いながら負けていく男の役をやり続けたし、トム・クルーズはあの笑顔でポール・ニューマンの後をずっと追ってきた。ハード・ボイルドの男たちのイメージはそうだし、人々が今さんざん使っている「ヒップ」という言葉も、光と影というわけ方をすれば影で、「影の方がかっこいい」という路線の言葉だという気がします。

死んで聖者になる(永遠の命、サムさんのいう再生?)というイメージは、大変強くアメリカ文化の中にあると思います。いずれにしろ、個人の事情を超えて「使命」を果たすことに非常な意欲を燃やすことで自己を証明しようという性向がとても強くて(ファンダメンタリズム?)、これはなかなか危険。

ロス:ということは、「ラスト・サムライ」は日米の事情にうまくはまったから、ヒットしたということでしょうか。アメリカについていえば、「使命」を果たすことが重要だというテーマが、対テロ対策やイラク問題を遂行する上で都合がいいから、こういう映画が制作されたとも考えれるような気がします。

私はいわゆるハリウッドの映画をあまり見ていないので、死をロマンチックに描いた映画というの��よく知らないのですが、ロックの世界を見れば確かにそういうものがあると思います。ヘビメタやグランジが表現した世界。カート・コベインが未だに神さまのように扱われているようなものです。それらはキリストの生涯、キリスト教の殉教と重なる考え方なのでしょうか。もしそうだとしたら、結局、どこかで日本の「死」への考え方と似てくるようです。

なぜネイティブ・アメリカンが登場するのか

ロス最後に、「ラスト・サムライ」でなぜ、ネイティブ・アメリカンがトム・クルーズのフラッシュバックとして何度も出てきたのでしょう。コロンビア大でのパネルのひとりが、「この映画が後世に語ることがあるとすれば、それはネイティブ・アメリカンに言及していることだ」といっていました。

キルさんが最初にいっていたベトナム戦争後の現象なのでしょうか。「ソルジャー・ブルー」や「小さな巨人」といった70年代初めのニュー・シネマを思い出させますが。よく比較される「ダンス・ウィズ・ウルブス」は観ていないので何ともいえません。あれは、時代的には、PCから来ている作品ですか。

または、1860〜70年代のアメリカ、つまり南北戦争やインディアン撲滅の動きと、明治維新の頃の日本という、日米が近代国家になろうとしていた時期の対比なのでしょうか。日米の歴史は、偶然といはいえ、似ているところがあります。江戸時代と(イギリスの植民地時代を含めた)奴隷制の期間はほぼ同じです。

サム:「後世に残る」と言うのは意味があるということなんだと思うけど、僕はアメリカ・インディアンへの言及こそが、あの映画最大の問題点だと考えています。1人の男(トムクルーズ)の罪悪感を描くこと(背景として使うこと)で正当化してると言えないこともない。それが一番この映画がヤバイな〜と感じる部分です。

ロス:ションバーグ黒人文化センターで、「バッファロー・ソルジャー」展をちらっと見ました。南北戦争後のインディアン撲滅戦を「インディアン戦争」(1866〜1890)と名づけていました。この展示は、黒人が、インディアン戦争その後の米西戦争でも国のために戦って偉かったことを見せるナショナリスティックなものです。アメリカは南北戦争の後も、ずっと戦争をしていたというわけですね。

この時代の流れからいくと、白人下級将校のインディアンへの同情というのは、ありえなかったような気がします。トム・クルーズは、最初、その罪悪感から逃れて気分を変えるために日本に行ったようでしたが、結局、サムライ(彼にとってのインディアン)側について闘うという図式は、確かに自分勝手な妄想じみたところがあり、それ自体が傲慢さに満ちています。

インディアンへの罪悪感がなくても、別にああいう話は成立し得たと思うのですが、それを入れることでサムライ側につくことを正当化し、また余計にヒロイズムが生まれると思ったのでしょうか。製作者にきいてみたい気がします。

サム:死をロマンチック(美として)に描いた映画はハリウッドにもかなりあると思いますよ。最近のものなら、「Black Hawk Down」とか。主人公が死のうが死ぬまいが、再生のテーマが必ず同時に進行している。サブライム(カタルシス)が死を超克するという構図。多分「ロード・オブ・リングス」や「パッション」も同じで、僕にはどうしようもなくファンダメンタリズムの時代の産物に見えてしまいます。サムライ美学はこういう時代にぴったりはまったのかもね。