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物語アー�  〜アメリカ現代美術と�物語�

Text by: トシダミツオ



番外編�一番はじめの物�


ハドソン・リバ�派の盛衰

 僕�し�らくして、またメトロポリタン美術館のアメリカン・ウィングを訪れた。�に挙げたフレ��・チャーチ� "Heart of the Andes" �やはりハドソン・リバ�・スクール第二世代の画家アルバ�ト�ビァスタ�の"Rocky Mountain*" は画面の大きさ�大仰な額�手伝って印象深�何でも当時は見世物小屋的環�木戸銭を取って見せたそ�。ハドソン・リバ�・スクールの画家の中でも、最も商業�成功したのがフレドリ�・チャーチで緻�写実描写によるドラマチ�な風景画は人気を呼び、彼は時代の寵児画家としての地位を築いた�である�

Photograph of Olana

 フレ��・チャーチが活躍始めた��、南北戦争�1861-1865年) が起こった。この戦争�アメリカを二�し荒�絶望をもたらしたが、同時に北東部の実業家に巨大な富をもたらし、その結果ニューヨークの美術市�では今までに例がな�額でフレ��・チャーチを始めとする風景画家たちの絵が取り引き、売買されると�現象が起きたのである。無垢な自然の風景を理想として描いた作家たちの成功が南北戦争�経済的受益��富によって支えられて�と�のは歴史の皮肉だと云えるかもしれな��

 ハドソン・リバ�・スクールの頂点はフレ��・チャーチ�"Naiagara" とアルバ�ト�ビァスタ�の"Rocky Mountain" �1867年のパリ�でそれぞれ賞を獲得した時で、それによりアメリカの画家がヨーロ�の画家と名実ともに肩を並べた��った。アメリカの��自性とそ�水準が一応認められたと云えるだろう。しかし、終焉は性急に訪れた�1876年にフィア�フィアで開催された独�100年の博覧会では、ハドソン・リバ�・スクールの画家たちに替わり、フランスの革新�バルビゾン派の影響を強く受けた若�家たちの作品が注目されるよ�なって�。後に印象派に繋がる絵画の系譜である�


 少�盾するかもしれな�、そもそもハドソン・リバ�・スクールと�呼称が�めからあった訳ではな�しい。もともと1870年代にファ�ョナブルになってきたバルビゾン派系の画家とそれ以前�風景画家たちを比��別するために用�れたようで、そこには多少軽蔑的な意味合いが含まれて�らし�文化�フランスに対する劣等�ニュアンスが隠されて�の�ろう。結果�はそ�後ハドソン・リバ�・スクールの画家たちの作品は歴史の暗闇に忘れ去られて�。�評価を受けるには1940年代になるまで、つまり�ロ�の登場はすぐ傍まで、�ねばならなかった。現在私たちがハドソン・リバ�・スクールの画家たちの作品を知る機会を用意した�は�1987年にメトロポリタン美術館が行っ�"American Paradise" と�回顧展以来に他ならな��


オラー�


 付け足しになるが、フレ��・チャーチ�画家としての成功を基盤に�1860年、現在のオラーナ�場所に126エイカーの農地を買�そこに始めは民家風の質�な家を建て、家族と住ん�。彼はさっそく�園にも着手し、何千本も�カエ�オークを植林した。同時に人工�を掘削させ、この人工�は空と森の木�水面に�る視覚的な効果を�て�られたもの�と言�らスケールが大きい。もともとの地形を生かしながらも、チャーチ�彼の�を投影したロマンチックな景観の庭をデザインして�た。彼は絵の中で自然を描くだけでは飽き足りず、�然そ�も�をデザインしたとも言える�ろう。そして1870年に�年間�中東・ヨーロ�逗留から帰った彼はペルシャ・スタイルの邸�建てるアイ�アを得て、建築家と相�ながら自らデザインの案を練り、建�に着手した�


 家は1872年の秋には家族が住める状態まで完�したので、彼は妻と�人の子供とともにそ�家に移った。異国��漂う外観�細部のオーナメント��インなど一見�価値がある。家具�の他�調度品、気をく�った���敵�った。��た以後もチャーチ�完�に向か�手を加え続け、つ�彼の65歳の誕生日の年�1891年にオラーナ�完�した。この時にはオラーナ�体�土地面積�250エーカーに及んで�。晩年のフレ��・チャーチにとってはオラーナを完�さ��ることが、絵に代わり、彼の芸術への��となって�の�ろう。フレ��・チャーチ�1990年�20世紀の幕開けにこ�世を去って��

9/25/2000

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�ーガイド��月から11月2日まで
水曜�日曜 午前10時�午� �時
オラーナ�ニューヨーク州ハドソンの南4�イル�ルート9G�にある�
詳細�Ooana State Histric Site (518) 828-0135